2022.3.7
日本の首都だった肥前名護屋
名護屋の地はかつて、人の手のまったく入らない荒れ地であったと、多くの史料に記されています。ここに時の権力者、秀吉は天下普請と称して全国の大名に命じ、きわめて短期間で、大坂城に匹敵する大城郭を築き上げました。戦国から安土桃山時代にかけて蓄積された日本の経済力、軍事力、技術力の結晶。それが肥前名護屋城です。
政治経済の中心地にあった大坂城や、のちの江戸城が立派なのは当然のこと。かたや名護屋城は朝鮮出兵のためだけに築かれました。戦国時代に群雄割拠した大名たちがこぞって参集し、近所付き合いできる程の近さで数カ月、あるいは数年にわたり在陣したことも、日本史上あり得なかったこと。名護屋城は空前絶後にして、唯一無二の城郭都市だったのです。
歴史の転換点となった名護屋の7年
足掛け7年にも及んだ朝鮮出兵。多くの武将たちが海を渡り、すさまじい消耗戦を強いられました。その一方で、名護屋城に留まり、一兵も出さずに兵力を温存した徳川家康らもいました。この明らかな立場の違いが、やがて大名間の大きな分断を生み、豊臣政権を弱体化させたのです。つまり名護屋の7年が日本史の転換点になった。それが、はじまりの名護屋城。
佐賀新聞社社長
中尾清一郎
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